論理と、幻想と。

FFXIVやPCが好きなITスペシャリストが作ったものや考えたことについてダラダラ書きます

馬鹿につける薬

ふとした機会に「自分は馬鹿だ」と思うことが多くなりました。コミュニケーション能力の乏しさであったり、当たり前の気遣いができなかったり、つい調子に乗って大口を叩いてしまったり、そうして人に嫌な顔をされたり自分が嫌な思いをしたときに、そうした思いがとても顕著に湧き出てきます。

自分が馬鹿である、という自覚を持って過ごす日々は本来それなりに苦しいものであることを知りました。けれど自分にはまだまだ学ぶことがあると自覚して、人の言う事に耳を傾けたり、読み物をしたり、自身を豊かにしていく原動力としては最強の部類だと思います。苦しむことなくして人の精神は成長しない、そう自分に言い聞かせて、少しでも豊かになろうと、文字通り四苦八苦しています。

もっとも、馬鹿であることを潜在的な好機として捉えることが出来るのは、ある程度以上の素直さをもってそれを制したいと思える人に限るようです。自分が馬鹿である現実に打ちひしがれたことのある人、というのが適切かもしれません。問題意識を自分の内側に持つか他の誰かに向けるか……あるいはそもそも持たないか。

これはあくまで私の個人的な経験と信仰においての話ですが、正直な馬鹿と卑屈な馬鹿というのは性質に天と地ほどの差があるものです。卑屈な馬鹿というのは悪の化身そのものです。正直な馬鹿は、別に何者でもないけれどそのうち何者かにはなる。

「馬鹿にされた」などと騒いだり、あるいは「自分が馬鹿なのは誰かのせい」「自分が馬鹿なのは環境のせい」という開き直りに終始する卑屈な者には、おそらくつける薬はないと思います。不貞腐れていれば誰かが何とかしてくれると、いう甘えからの自立なしに改善するようなものではないし、薬など与えても見向きもしないどころかより卑屈さに拍車が掛かるだけです。

当人はとても楽なことと思います。自身や周辺に不都合が生じたとしても、「自分は悪くない」と誰かに責任を押し付けるようなことを迷いなくできるでしょう。最悪なケースでは「自分が馬鹿なのが悪いが、それは仕方ないことなので責められるべきではない、なぜなら……」と臆面なく言える者とも相対したことがあります。本当に最悪で、ノイローゼで倒れるほどの悪夢のような経験でした。馬鹿であると開き直って何の努力もしない方が楽で都合がよい、という状態です。口を開けば「でも」「どうせ」、自分の身を守るためなら相手の人格攻撃や揚げ足取りなど造作もない。開いた口が塞がらないままに離縁したけれど、やはりつける薬は、ない。

おそらく最終的に自分の人生を動かすのは自分である、という当たり前の感覚が薄いのだと推測しています。モノや環境にしても何にしても、誰かに与えられることが当たり前だったり、選択をせずに楽な方にばかり流れて大きくなった者は、きっと馬鹿である自分に打ちひしがれたりはしないでしょう。だから、都合の悪い現実も自身が選択したものだと認識するまでは、薬などつけるべきではない。

どんな他力本願な生き方をしていても、自分自身だけは誰かが都合よく変えてくれるようなものではない。変わりたいと口にするだけなら、誰にでもできる。けれど、素直であることは、簡単ではない。

自分がスカスカの馬鹿であることに打ちひしがれて、この不都合な現実を何とかしたいと素直に思えたときに、はじめて自分の空っぽの器が武器に防具にと転じるんだと信じています。自然現象や偉人の言葉、隣人の呟きにより慎重に耳を傾けてみたり、知識や知恵を身につけて思想に彩りを足したり、環境や行動を変えてみたり、そういうことが自発的に出来るようになる。そうして少しずつ器を満たしていくものが、やがて真に自分の身を守る防具だったり、悪を挫いて弱きを助ける武器になる。求めていない馬鹿につけるための薬なんて都合のいいものはないが、求める馬鹿はどんなものだって薬にできる。

もちろん、そんな軽々しく自分の馬鹿さなんかを悔やむ必要のない人生であるに越したことはないとは思います。けれどそういう順風満帆な日々を送れる人ばかりがマジョリティではないと思います。自分に至らないことがあったり、失敗してしまったりして、自分が馬鹿かもしれないと打ちひしがれたなら。それは他の誰でもなく自分の内面と向き合う一番の理由になり、その後の振る舞い次第で、より豊かな人生を送るチャンスに変えることも出来る。四苦八苦してはいますが、そう思うようにしています。その方が都合がいいので。