論理と、幻想と。

ゲームやガジェットが好きなITスペシャリストが作ったものや考えたことについてダラダラ書きます

デウス・エクス・マッキーナ

物語の演出技法のひとつで、文字通りに「機械仕掛けの神様」のような存在が都合良く現れ、その絶対的な力によって困難な局面を打破して物語を収束に導く、という手法を指す言葉です。

この手法自体は古代から批判の集まるところではあったらしく、現代でも「ご都合主義」なんて揶揄されているのも確かに一理あるとは思います。夢オチみたいなもの、あれは神の力によって全てを無に返す乱暴なやり方です。

そういう無茶苦茶な例は置いておいて、私はこの手法がどういうわけか好きだったりします。唐突に現れた機械仕掛けの神様や、あるいはそれに準ずる力を得た物語の主人公たちが、バタバタと悪を倒していったり、長年の夢を結実させたり、ときには愛し合うもの同士が心を通わせたり……、ある意味で、予定調和のようなもの。強引に、しかし堂々とそういった展開がされると、否応なしに胸を打たれてしまう。おそらくはそれが、その脚本でもっとも描きたかった場面であったり、伝えたかったメッセージ、そういうものには素直に感じ入ろうと思うのかもしれません。

その存在が理不尽なまでに絶対的な強さを持っていたり、強引であったりすればするほど、その軋みに呼応するように何かが共鳴する。胸を打つ、とか魂が震える、とかそういう表現で例えられるものです。都合良く差し伸べられる救いの手や、都合良く体の内に湧いてくる異次元の力、そういうものが出てくるゲームやアニメ映画には特に弱い。わりと信じられないようなところで涙腺が緩みます。

必然性のある因果関係の中で導き出されていく現実的な物語であるべき、というのが相対する側の理屈のようです。巧妙に張り巡らされた伏線なんかを回収する瞬間にカタルシスを覚えたりはするけれど、それは胸は打つのとはまた別のもの。そういう物語が苦手というわけでもないけれど、そもそも私は物語の登場人物への感情移入がとても苦手です。淡々と導かれる物語に彩りを添えるのが登場人物たちの感情だと思いますが、そういった喜びや怒り、憎しみや悲しみを強調される場面に至って「言わなくても分かるよね、さあ共感して感動するところですよ」と言われているようで興が醒めてしまう。

だから一周回って、全く共感できないけれど共鳴してしまう、そういうものを都合よく求めているのかもしれない。後光に包まれた機械仕掛けの神様が敵をバタバタとなぎ倒していくような、「あえて言うがここに感動してくれ」という強烈なメッセージが演出と共にザクザクと降り掛かってくるのが何故か心地よい。その熱量に共鳴して、胸を打たれて魂が震える。

共感ではなく共鳴するにあたって、多少の矛盾や理不尽さなんていうのは、取るに足らない。最終的に綺麗に収まっていれば、それで良い。揚げ足を取るのは評論家に任せておけば良くて、つまらない文句を差し挟むことに快楽を覚えたくはない。しかしそれでも口に合わないのであれば、その脚本は多分自分向けではないんだと思う。ご都合主義で何が悪い。