論理と、幻想と。

ゲームやガジェットが好きなITスペシャリストが作ったものや考えたことについてダラダラ書きます

コロニーと四畳半のインターネット

現代にこそブログや個人サイトがもっと流行らないかなあと思ったりします。いわゆるインターネット老人会的な側面から緩く革命を起こせないかな、と。

まだインターネットの中心が個人サイトや掲示板だったころ、誰もが自分だけの四畳半のような、自分の空間を持っていたように思います。ある者はその四畳半の中に穴を掘り進めて独自の世界を拡大し人々を驚かせたり、ある者はそこに展示した芸術で多くの人を魅了したり。そうでない者も、大小はあれどそういうものに憧れたり、そういう誰かの牙城に足を運ぶことでコミュニティと、社会と触れ合ってきました。

ザナドゥ計画に端を喫するWorld Wide Webの構想が個人レベルに広がった流れとして、それはとても自然なことに見えました。文書のリンクによって世界を構築する、私は元々その可能性の果てしなさに強く惹かれて、10代の頃にマークアップ言語を独学で習得しました。例に漏れず、中学生の頃にはいくつか個人サイトを作って運営していました。愛すべき黒歴史です。

インターネットの世界では誰もが四畳半を持っていた、または憧れていた。そういう時代から四半世紀が過ぎた今どうなっているかと言うと、インターネットの世界はいくらか綺麗になりすぎてしまった。

もともと個人の趣味関心、イデオロギーが織りなす四畳半が無限に繋がって出来ていた九龍城砦のようなWebの世界は、新しくそこに踏み入る人にとっては些か敷居の高く見えるものでした。同時に、それは商業的に大きなチャンスでもありました。Webページ作成サービスや、後にブログと呼ばれるサービスが始まり、そして現代的なSNSの前身が出てきます。2000年代初頭~中頃の出来事です。デコボコの道は巨人の手によって綺麗に整地されて、収益化の仕組みが作られ、インターネットはそれ自体が巨大ショッピングモールのような、オフィスビルのようなクリーンな空間に姿を変えました。危険なものは排除され、子供が安全に遊べる遊具が整然と並び、ここでボール遊びはしないでください、と張り出された公園のような場所。依然として小汚く愛おしい場所というのも残ってはいますが、そういうものは商業的な繁栄から取り残されて裏路地に追いやられてしまった。それも自然の淘汰です。

ショッピングモールやオフィスビルの中には十分な数の人を住まわせることは出来ないので、それまで四畳半の牙城だったものの代替として商業的に提供されるようになったのがSNSです。実際にはそれは誰の牙城でもなく、言ってみれば広大な公民館のようなものです。あたかも自分の部屋であるかのように勘違いをしがちですが、そこは誰かが商業的に用意した施設の一部です。間仕切りのないコロニーです。

自分で作った自分の牙城ではなく、広大なコロニーで雑魚寝しているようなもので、そこに暗黙のもとに敷かれているのは布団ではなく共同体のルールです。つまり社会です。IDを持ち、文を書き、人との繋がりがある程度以上に明文化されることによって、これまで雰囲気的に醸造されたゆるい社会よりも、より社会性の求められる厳しい相互監視社会になったようにさえ感じます。

世界のことは分かりませんが、少なくとも日本では個人主義・自由主義といったリベラルなバックグラウンドがとても強く育っているように思います。戦後教育の功罪かもしれませんが、共同体というのはとっくに解体されて、何を言っても自己責任、個人の自由だったはずです。そういう背景も手伝ってか、その気になれば手に入るインターネットの四畳半の牙城というのはとても魅力的な存在だった。しかしSNS時代の到来によって、その四畳半を模した、パーティションのないコロニーの1区画が誰にも簡単に与えられるようになり、マス層に共同体の時代が再び戻ってきてしまった。

インターネットは社会性の求められる世界になった、と書きましたが、実際には他人にだけ厳しい世界になった、と思っています。Twitterなんかまさしくそうでしょう。個々人はそれぞれに個人の自由を謳歌しているつもり。けれど親しい社会で自分の気に入らない者、自分とは関係ない者、そういう者に対してはとうに解体されたはずの共同体のルールを適用して、彼らの自由を人民裁判で断罪しようとする。責任の範囲を超えて他人の自由を侵害することも個人の自由だと言わんばかりに。非常に不寛容な社会になってしまった。焼け野原になるのも時間の問題です。

もちろんSNS以前のインターネットにそういう性質がなかったわけではないです。前にも書きましたが、人民裁判を開催して賛成票を多く獲得することで自分の相対的な立ち位置を確認することができてしまう、そういう悪夢のような共同体の脆弱性がSNS時代に大きな穴となって顕現して、そのひとときの快楽の甘美さが人を飲み込み続けている、という仮説です。

blog.sheeva.me

私はこの不寛容で他罰的な社会というのが現代のディストピア感の正体だと思っています。他人に対してだけ厳しいという歪な在り方が、一億総評論家社会、国民全員野党、みたいな文脈に行き着く。

他人の揚げ足取りや同調で気持ちよくなるなんていうインスタントな気持ちよさばかり求めていたら、自分の思考を動かしていないのに考えたつもりになれてしまうから脳だってスカスカになるし、起こるイノベーションだって起こらなくなる。当然、そんな場所で国力は育たない。(なんとなく察してもらえるかもしれませんが、私はリベラルな保守派です。矛盾しているように見えるのは現代の保守という考え方が排他主義に傾倒しすぎているからだと思います。)

では自分にも厳しくすればいいのか、といえばそれも正解ではないと思っています。他人にばかり厳しい馬鹿に席巻されてしまうのは都合が悪いですが、常に意識の高いサイボーグみたいな連中に取り囲まれるのも、それはそれで悪夢のようです。シンプルに自分に甘く、他人に甘く、オープンマインドでいればよい。殴りかかってくるような者とは公正に戦うかさっさと逃げるか、そういう姿勢で良いと思っています。

現代にこそブログや個人サイトが流行ればよい、と思うのはコロニーの参加者が増えすぎてどんどん居心地が悪くなっているからです。そしてその居心地の悪さが、間仕切りのないコロニーの中でそれぞれが自分の四畳半を主張するからという、ある種の例え話です。個人サイトではないけれどnoteなんかはとてもいいサービスだと思います。しかし収益にしろ満足感にしろ、コロニーで過ごすことよりも大きなインセンティブを得られるようになるまでは時間がかかります。

それでも決して、コロニーの外側は荒廃したポストアポカリプスの世界というわけでもないので、たまにその外に出て少しずつ、目指すべき世界を、自分の四畳半を改めて作り直していく動きが増えればいいなあと思います。黒歴史が増えていこうと、それはそれで味があっていいじゃない。私はそういうスタンスでインターネットを楽しんでみようと思ってブログやいくつかのサイトを開いた次第です、ということでひとつ。

四畳半神話大系 (角川文庫)

四畳半神話大系 (角川文庫)

  • 作者:森見 登美彦
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2008/03/25
  • メディア: 文庫