論理と、幻想と。

ゲームやガジェットが好きなITスペシャリストが作ったものや考えたことについてダラダラ書きます

共感による支配

前置き

マイクロブログサービスとして始まったTwitterは十数年の時を経て、友人たちと話題を共にして共感を得ることを主軸としたコミュニケーションツールとしての使われ方に派生しました。それぞれに思いの丈を自分の言葉で発信している人の割合が多かった時期もあったし、彼らが依然としてそこに居るのも知っています。しかしコミュニケーションツールとして急激に参加者の母数が増えた結果、それぞれのコミュニティの内側から野次を飛ばす人間の割合が圧倒的なまでに増えてしまった。これは気のせいではないと思います。

決して悪いことばかりではないと思います。発信のツールから派生して、誰でも使えるコミュニケーションツールとして使われるようになったこと。時代の流れに沿って言葉やモノの在り方が変容していくのは然るべきことです。しかしコミュニケーションツールとしての在り方がいくらか邪悪な方向に更に変容しつつあるのを懸念しています、という話です。

共感が増幅する悪意

コミュニケーションツールの中でも現代のSNSは「共感」を増幅することに特化しています。確証バイアスやアルゴリズム編集という言葉でも説明できる通り、同質なものが寄り集まりコミュニティが出来る傾向があるので、自動的に異質な者は排除され、反対の意見や考えに触れる機会が減っていく。「いいね」機能も、称賛したい・気に入ったという従来のFavoriteという位置付けから派生して、無言で同質性を確認し合うのに好都合なツールになりました。

コミュニティの中で共感が増幅する、というのは今に始まったことではないです。国も組織も同じで共同体ならばどこにもそういう側面はあります。共感というのは舌触りが良いので一見すると良いものに見えますが、「悪意も増幅する」という大きな脆弱性があるので、運用には十分な注意が必要になってきます。

世界の真理がどうとか関係なく、自分が属するコミュニティ(クラスター、界隈などと呼んだりする)の中で共感を得やすいこと、肯定されやすいこと、これを「コミュニティ的なただしさ」と呼称します。ミクロなコミュニティの中では往々にして法や規範の類とは矛盾することもあります。

共同体の形は様々ですが、強いコミュニティは利害がある程度以上に一致しています。共通の思想、共通の目的、または共通の倒すべき敵がある。目的に向かう過程で「コミュニティ的なただしさ」を確認しあい、互いを肯定することができる。しかし元々が目的を持って作られていない集まりにおいて共通の目的を作るために手っ取り早いのは、暗黙の元に敷かれた「コミュニティ的なただしさ」の外側に、仮想の敵を作り出すことです。いわゆるスケープゴートです。

共通の敵なんていうのは別に巨悪である必要はなくて、「ウザい」とか「キモい」みたいなアホでも共感・同情しやすい言葉を当てはめるだけで十分に事足りてしまいます。あとはコミュニティ内の共感によって、それら仮想敵に対する悪意は無責任に増幅します。それらの影響を受けて、ある人や言説について悪意を持った状態で評価すれば、当然にその悪意を肯定する要素ばかりが目につくようになります。これもまた確証バイアスの働きによるもの。繰り返して悪意は際限なく増幅していきます。

残念だけど隣人の顔色を伺わずに自分の物差しでニュートラルに物事を評価して堂々と振る舞える人はそれほど多くないです。長いものに巻かれていた方が心地よいのも事実だし、不用意に波風を立てないように振る舞うのが「品行方正」であるように見える、というのもあるかもしれません。もっとも、他人に共感して他人の共感を得るために平然と事実を歪めたり他者を貶めるような事を口にする者は「品行方正」とは全く程遠いものですが。

「いいね」や同調意見によって得られる肯定感と、同時に担保される「コミュニティ的なただしさ」がバックボーンとなり、人は分不相応な自信を身に付けていきます。人が持つ元来の気質も大きく関係するけれど、「自分は悪くない」という典型的な他罰他責の考え方もそういう過保護なバックボーンが助長しています。自分の都合の良い部分だけを恣意的に切り抜いて「この人にこんな酷い仕打ちをされた!」とか「この人はこんな事を言っている(から悪人に違いない)」とポストして共感や同情を得ることに成功すれば、たちまちコミュニティ内で増幅する悪意によって、その人は本当に悪人になるでしょう。先に自分がツバを吐いていたとしても。

私の境界

共感の支配が行き過ぎると、「コミュニティ的なただしさ」が「自分の善悪の基準」を侵食してしまう。自己と他者の境界がどんどん曖昧になる。もちろん世の中には共感する善意というものも確かにあって、それがとても純粋で尊いものであることも知っています。そうしたものから目を背けるつもりはないですが、今はそれ以上に負の共感への恐怖と反骨心が勝っているだけのことです。

私はもともと共感が得意ではない社会不適合者です。得意ではない、というのは距離感の話で、気味が悪いほどに共感し同調してしまう(過剰適応)か、全く共感できないと反発するか、どちらかに極端すぎました。だから私は、自分の思想を自分の物にするために、負の共感による支配が強く及ぶ場所からは少し離れることにしました。