論理と、幻想と。

FFXIVやPCが好きなITスペシャリストの屁理屈とか

疑問というトリガーが生むインパクト

よく生きづらいと思う。けれど他人、ましてや世の中のせいではなく、その生きづらさの正体は自分のカウンタースタンスにあった。

私は何事にもとりあえず疑問を持たずにはいられない。そして思ったことをつい口に出してしまう悪い癖がある。特に小さなコミュニティにおいて、話題や関心を共にすることができないどころか、彼らの興に水を差してしまうことが多い。仮に自分が抱いた疑念が正しいか正しくないかはともかく、共感のコンテキストの中で当然に好意的に受け止められるケースは極めて限定的である。

「なぜ、それを話題にするんだろう?」

「なぜ、これを話題にしないのだろう?」

「彼らは、それを通じて何を語りたいのだろう?」

もちろん相手もそんな面倒なことをいちいち考えてはいないことも頭では分かっている。しかし、違和感を感じたらそれを検証せずにはいられない。独りよがりな禅問答である。特にコンテキストが断片的なSNSで、こんなことをくるくるくるくる考えながら眺めていれば、この情熱的な違和感は収拾がつかないほどに増幅し、妄想に近いものになる。

斜に構えているのではなく、まっすぐ反対方向を向いている。けれど特定の物事にまっすぐ向き合いたいだけで、少なくとも特定の誰かに悪意を差し向けたいとは微塵も思っていない。しかし、そもそも人と向き合うことにさほど興味がなく、いきなりもっとマクロな視点で物事と向き合おうとしてしまう時点で、現代のSNSには向いてないことに気がついた。まだしばらくやめないけど。


少し話はすり替わるけれど、私は疑問を抱くことに関してはちょっとした異能を持っているという自負がある。善いか悪いかはまた別問題だけど。

「今のやり方でも出来ているから、いい」というような事柄に対して、「もっと良い方法があるんじゃないか」という疑問を抱く。あるいは、誰かが「そんなことはできない」と言った事柄に対して、「果たして本当にできないのか」という疑問を抱く。それらのカウンターを用意して、ポジティブに期待を裏切る仕事をしてきた。疑問を抱くこと自体の妥当性や、その検証コストがリターンに見合っているかどうかは果たして分からない。もちろん社会で上手に生きていくためには、本来それらの予測や客観的な評価も必要なんだけど、今はまだそんなことは二の次だったりする。

「なぜ、それをしているんだろう?」

「なぜ、これをできないのだろう?」

「彼らは、それを通じて何を実現したいのだろう?」

その疑問を冷静に咀嚼して、ゆっくり蒸留・精選しているうちに、違和感の正体に気づくこともある。誰も疑問を抱かなかった幻想や、誰も想像できなかった事柄について、言葉やあるいはその代替となる手段によって提起したり、実現して見せたりするときに、圧倒的なインパクトが生まれる。

とはいえ疑問の根底にある違和感は自分の主観的なものでしかないので、時に視野が狭窄になってしまい大きなエラーだって起こす。けれど誰も疑問を抱かないなら自分が疑問を抱くし、自分に対して誰も疑問を抱かないなら今度は自分の言うことにさえも自分で疑問を抱き、検証する。うまくいく時もあれば、思わぬ反感を買うこともある。そういう必要悪だと割り切っている。

違和感の正体を暴き文化や芸術の域にまで昇華させて、それによって人の想像力を飛び越えて再び誰かに疑問を抱かせることに成功しているカウンターカルチャーの類には憧れてやまない。

私は原理主義的な技術屋だから、人の考えることは分からなくても技術のことはそれなりに知っている。妄想によって物事の本質を見誤らなければ、それらの入出力をちょっとしたHackで繋ぎ合わせて、自分の想像した通りの結果が得られることも知っている。それらが人の想像を上回ったり、妄想を打ち破ったときに、「そんなこともできるんだ」という驚きを生むことも知っている。

やはり想像力は、豊かすぎても乏しすぎても良くない。人の幻想ともう少し真摯に向き合い、自分の妄想を上手に手懐け、そのギャップを飛び越えて小さなインパクトを生み続けたい。