論理と、幻想と。

ゲームやガジェットが好きなITスペシャリストが作ったものや考えたことについてダラダラ書きます

かつての少年のさだめ

私は小学生の頃から長らくボーイスカウト活動に参加しています。これを書いている現在は指導者の位こそ降りていますが、それでもなお青少年期に誓いを立てて培ったマインドはどうやら身体にすっかり馴染んでいるようです。

ボーイスカウトとは何かと良く聞かれました。一口に語るのは難しいけど、私にとっては「野外活動などのアクティビティを通じて、自発的に社会に奉仕できる健やかな精神を育む環境」だったと思います。

教育的特徴についてはボーイスカウト日本連盟のWebサイトなんかを参照されるのが早いでしょう。中でも最大の特徴の一つとして挙げられているのが「青少年の自発的活動であること」です。自分で目標を定めて活動を行って、それらを自分たちで省みて、また次の活動を行います。成年者のサポートを得ながらも、自分が何をすべきかは自分たちで選択して決定し、実行します。これが完全に出来るようになるのはある程度成熟した年代からのことですが、基本的に「やりなさい」と言われて何かをするものではない、というのが大きな特徴です。

私が成人してから指導者として最も長く参加したのは、小学校低学年~中学年にあたるカブスカウト隊でした。彼らは「ぼくはまじめにしっかりやります」そして「カブ隊のさだめを守ります」という2つの「やくそく」を表す2本指でのスカウトサイン(敬礼)をします。かつて少年だった僕らも同じように制服を着て、2本指で敬礼をしていました。

約束として守られる「さだめ」というのもとてもシンプルな5か条です。

  1. 素直であること。
  2. 自分のことを自分ですること。
  3. 互いに助け合うこと。
  4. 幼いものをいたわること。
  5. すすんで良い事をすること。

さだめ、とは言っても口にしているだけではただのおまじないで、それだけで身に付くものではないです。当たり前であるとされることを本当に当たり前に実行できるようになるには、規範と経験を要します。そして行動規範の類は自分の五感で痛みや有難みを感じてはじめて血肉に浸透するものだと思います。

最初は自分のことは自分でする、ということ一つだけでも難しい。例えば荷物のパッキングを親任せにしたら、夜に懐中電灯が見つからない、と慌てるかもしれない。初めて使うシュラフの畳み方が分からなくて朝のセレモニーに間に合わないかもしれない。それらは決して教えてくれない親のせいではなく、自分のやるべきことを自分でしなかっただけの話。けれど、「それ見たことか」などとは言わない。懐中電灯を探す手元を照らしてもらったり、一緒にトイレまでついてきてもらったり、シュラフの畳み方を教えてもらったり、そういう助け合いは惜しまない。そう教わっているし、助けてもらったら嬉しいことも知っている。特に年少期には年上に助け舟を出してもらうことが多かったし、そして自分が班や組の長になった時には、今度は自分の班の者が困っていれば同じように手助けをする。

困った顔をしていれば誰かが何とかしてくれる、というような子供の頃に誰もが持つ甘えを正し、自立した人間であるという自覚を少しずつ育むにあたって、規律とともに立ち入る自然環境ほど適しているものはないような気がします。注意を怠って転んで擦り傷が痛むのも、防寒対策を怠って寒いのも自分。当たり前の因果律です。誰かがやってくれる、と呆けていれば寝食もままならない。「やらないと怒られるからやる」のではなく、「やらないと困るから、やる」という単純な話です。 転ぼうが寒かろうが寝る場所に困ろうが、自然は常にそこにあって、しかし決して分かりやすい言葉で何をすべきかなど教えてはくれない。日々のセレモニーで繰り返し唱えていた「さだめ」というのは、そうした些細な体験に自分が何を考え何を学ぶべきなのか、「そう教わっていた」ことを思い出すための端的なしるべでした。

世の中に伝わる格言や逸話はたくさん見聞きしたと思うけれど、卑屈な者、他力本願な者、助け合わない者、弱きを労らぬ者、そして、善行を行わない者を賛えるような話はこれまでに聞いたことがない。制服を着なくなってある程度成熟しつつある今にして思えば、どうやら少年期に繰り返し唱えた「さだめ」というのは、少年にも分かりやすいように噛み砕かれたひとつの真理だったのかもしれない。時代や技術がどれだけ進んでも、人が元来尊ぶべきことはきっと変わらないと思います。