論理と、幻想と。

FFXIVやPCが好きなITスペシャリストの屁理屈とか

なくてもいいものを作る

私は「なくてもいいもの」をよく作るし、よく欲しがる。

本ブログでこれまで扱ってきたようなゲームの外部ツールだけでなく、仕事でも同じ。特にITの世界なんて「なくてもいいもの」だらけである。自動化にしろ省力化にしろデータ分析にしろ、ITシステムは人の作業や判断をアシストするための道具の枠を出ない。それがなければ時間が掛かる、または精度が下がる。けれどなくても別に仕事が全くできないわけではない。でもやっぱり、あったら便利。

なくてもいいもの、の性質

「なくてもいいもの」にも、いくつかの種類がある。

「なくてもいい、けれど少しだけ豊かさを実感できるもの」。例えば、10ステップかけて行っていたPC作業を、1ステップで実行できるようにする時短スクリプトを提案したら、きっと多くの人に歓迎してもらえるでしょう。ステップ数が少なくなればミスも減り、空き時間も生まれて気持ちに余裕が生まれる。少しだけ豊かさを実感できる、とはこういうこと。これは個人が容易に想像できる小さな豊かさの例だけど、もっと大きなシステムであっても、結局は自分を豊かにしてくれることを想像できるかどうか、これが欲しいと思って投資できるかどうかの決定的な要素だと思う。

もちろん、欲しいかどうかは二の次で必要に迫られる場合もある。とりあえず付け焼き刃で切り抜けて、次に少しだけ豊かになる方法を考えればいい。それも知恵である。

一方で、技術屋の目線で対局の立ち位置にあるのは、「必要だと信じ込まされた、なくてもいいもの」だと思っている。例えば、不必要な機能てんこもりで的外れな業務パッケージを売りたい営業や、お金を使わせて仕事をしている風なコンサルタントとか、そういう人が提案するものとか。邪悪な表現をしたけれど彼らの提案が間違っているとは言わない。組織や社会において全体最適を目指すなら、時に個人の豊かさはトレードオフの関係にもなる。けれど、必要に迫られたから、あるいは必要だと信じ込まされただけで、自分たちが心から欲しがっていないものに対して、人は興味を持ち続けられるだろうか。

なくてもいいものと、相対する人

これはここ数年で得た感覚だけど、「なくてもいい、けれど少しだけ豊かさを提供してくれるかもしれないもの」を見せられた人の反応は極端に2つに分かれる。同じものでも、相手やモノの性質によって「なくてもいい、だから必要ない」もしくは「なくてもいい、けれど興味がある」と、明らかに違うフィードバックが得られる。

「なくてもいい、だから必要ない」という反応は、その人自身が豊かになるビジョンを提供できなかった、あるいは想像力を動かすことが出来なかったということだと理解している。つまり結局、その人には必要なものではなかった。

伝え方の問題もある。十分な信頼が得られていないならば猜疑心を持たれても致し方ない。悪人の言うことだから悪に違いない、という言われ方をしたこともある。当然その人が悪いというわけではなく、欲しがる前提のない土壌に無理やり花を咲かそうと働きかけても溝を深めるばかり、というのが事実だと思う。

想像力は豊かすぎても、乏しすぎても良くない。自分の理解を超えた出来事に対して、適切な想像力を働かせることが出来るかどうか、こればかりは人の性質によって決定的に違いが生まれる。自分の理解を超えたものに対して過剰に防衛する人もいれば、とりあえずどんな味がするか想像してみる人もいる。特にITに関しては歴史が浅いこともあり、想像の土台になる知識に個人差が大きいから当然といえば当然。

そういえば最近、新しいバッグを買った。バッグなんていくつも持っているけど、たまたま見かけたそのバッグが私を少しだけ豊かにしてくれる、そんな気がしたから買った。新しいバッグを身につけた自分の体験を想像することは簡単だと思う。

新しいソフトウェアと、新しいバッグを同じように評価はできない。そのギャップを埋めるために専門家がいる。そもそも魅力的な提案が出来るようになることも大事だし、あるいは違和感を拭って安心感を与えることも同じぐらい大事。決して人に好かれるタイプではないし、話し上手でもないけれど、「なくてもいい、けれど興味がある」という前向きな反応を少しでも引き出せるエンジニアになりたい。