論理と、幻想と。

ゲームやガジェットが好きなITスペシャリストが作ったものや考えたことについてダラダラ書きます

正義と良識の他罰的な濫用

正義とは、自分の信じる正しさのことを指します。良識とは、社会秩序を守る健全な見識のことを指します。どちらも、他人に刃を向けて振り回すものではありません。ところが良識を持っているつもりの正義を振り回して気持ちよくなる輩が後を絶ちません。これは、ゲーマーのコミュニティだけに限らずインターネットのあらゆる所で目にする光景です。

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正義を攻撃的に振り回し、相手を斬り伏せ悪者として裁き火を付けて燃やす、というのはとても気持ち良いことだと思います。自慢の刀を振るう機会があれば、あるいは新しい刀を手に入れたら、きっと試し切りをしたくなる。そしてそれは気持ちが良い。なぜなら良く切れるからです。そして、よく切れる刃物を持っている自分が強くなった気になることもまた気分がよく、そんな強くなった自分を周りに誇示したくなるのも、それほど不自然なことではありません。

私は、そうした欲を適度に抑制し、その刃物を人を守るための武器に変えることのできる能力というのが本来の良識だと思っています。

正義の濫用

正義を他者に向けて行使すること、自身を省みるリファレンスとして運用すること、これはまったく違うものです。

あなたの正義と、私の正義は違う。何を考えどんな景色を見ているかも、教わってきたことも、守りたいものも、違う。正義のぶつかり合いが起こることもまた、致し方ないことです。しかし交わることのない、対立する複数の正義について、片方の正義をもって他方の正義を悪として討ち滅ぼす、というのは正義の濫用に片足を突っ込んだことであって、それ自体がエゴイズム、傲慢と呼ぶべき性質のものだと思います。

正義感が強いのは結構なことです。過ちを許さない心、それ自体はある程度に尊ぶべきものです。けれど、度が過ぎてはいけません。正義を他人に向けて振りかざし、他人の過ちを斬り伏せる、その刃物の切れ味を確かめるのは気持ちがいいでしょう。しかし例えば、悪という共通認識を斬り伏せ、強い自分やその仲間を周囲に誇ること、これは私刑、いわゆるイジメの始まりです。正しさに裏打ちされているという勘違いが、より事を深刻なものにする。収拾がつきません、何故なら自分が正しいと思い込んでいるからです。

良識の化け物

正義を暴力的に行使すること、とまでは行かずとも、良識がある自分のアピールに暇がないのも現代では珍しいことではありません。(特に第三者の振る舞いに対して)安全圏でもっともらしい美辞麗句を並べて、「わかっている自分」を他者に認めてもらう。当事者でも何でもないのに「いいね!」の数だけ強くなれる……ような気がしてしまう脆弱性がそこにはあります。

良識とは、物事の健全な考え方のことを指します。これもまた、自身の立ち振舞いを決定するためのリファレンスの一つです。同時に、他者の過ちを受け入れ、良い方向に導くためのしるべでもあります。決して他罰的に運用されるべきものではありません。他罰的な文脈で良識を語る者は「わかっている自分」に陶酔した、良識に取り憑かれた化け物というべき何かでしょう。

自己相対化

正義や良識を他人に向けて振り回す傲慢さの裏側には、「自分が絶対的存在である」という大きな勘違いが潜んでいる気がします。

推し進められた個人主義、自由主義に無宗教化が追い風となって、現代の我々は神様のような超越的な存在と向き合う機会が激減したと思います。損得勘定では誰も自分を咎めてなどくれない。なるべくして自分が絶対的な存在になってしまった。自分は絶対に正しい、何故なら――さて、何故でしょう?

超越的な存在としての神様と向き合う、というのは自己と向き合うことと通じています。礼拝のような儀式は超越的な存在を通じ、自己の在り方を相対的に確認するための重要なプロセスです。決して、神を絶対の存在として崇め、神の代行者として振る舞うことを推奨しているわけではありません。

神様でなくても心から尊敬する先輩や恩師のような人でもいいでしょう。「彼らならどうするだろうか」または「彼らに恥ずかしくない振る舞いだろうか」と定期的に自己を省みて、相対的な存在であることを確認し続けることが、正義の暴走を防ぐために重要なことなんだと思います。神社仏閣、あるいは教会に参拝してみることはヒントになるかもしれません。そういう超越的な存在を身近に認めることができなければ、シンプルに「おてんとさまは今の私をどう思うかな」というだけでも良いと思います。外に出て深呼吸し、太陽に向かって小さく敬礼の一つでもしてみれば良いんじゃないでしょうか。

ゲームが上手い、たくさんの友達がいる、たくさんの知識がある、そんなことは人の器――正義や良識の大小、ましてやその優劣に何の影響も与えません。ただ、自分が絶対に正しいと信じる慢心を、正義を振り回し人を斬り伏せて簡単に気持ちよくなる愚かさも、「おてんとさまはきっと見ている」。自分なりに襟を正し続ける習慣を作って、自分の内面と向き合う時間を少しずつ増やすことが、インスタントで他罰的な思考から脱却するための近道かもしれません。